下町に生まれ、下町で育った我々は、人との繋がり、絆をとても大切にしています。
当町会の総務部としては、そのような“人”をテーマにしたコメントをアップしていきたいと思います。
人は“老いて”その後、避ける事の出来ない“死”が待ち受けています。
また、統計上、病気でこれだけはなりたくないと思っている人が多いのが『認知症』と『がん』だそうです。多くの高齢者に接してきた著者がそれらの“病い”、“老い”や“死”について、職業上の体験をもとに新しい視点で書かれた本が今回紹介する『人はどう老いるのか』です。本書を3ページのダイジェストにしましたのでポイントのポイントとなっておりますが、共感する点が一つでもあったら、本書を読んでみてください。
『人はどう老いるのか』
久坂部 羊著
私が以前、在宅医療で診ていた一人暮らしの女性の患者さんが、「自分が死んだあと、家族に迷惑をかけたくないので家を整理したい、見苦しい状況を残したくない、でも、体力が無くて、それが出来ないんです」と嘆いていました。
私は、「高齢になったら、そうゆう欲望も抑えていかなければなりませんね」と宥めました。すると女性は心底驚いたような顔で、「欲望なのですか」と聞き返しました。女性にとってそれは当然の事、最低限すべきことだったのでしょう。
彼女にとっての欲望とは、お金が欲しいとか、いい暮らしがしたいとか、出世したいとかの事で、死んだあと家族に迷惑をかけたくない、というまっとうな気持ちをそれらと同列におかれたのが心外だったようです。
しかし、広い意味ではやはり欲望でしょう。欲望と言って悪ければ、自分の都合でも構いません。それを義務のように心得ているので、出来ない自分が情けない、つらいと感じるのです。
「欲望や執着が苦しみのタネであることは、インドのお釈迦様がつまびらかにしていますし、中国の老子が「無為なれば、しこうして為さざるなし」(人為を加えず自然に任せれば、すべてがうまくいく)と言っています。つまり、多くを求めるから苦しみが生まれ、あれこれ望むから色々な事がうまくいかないというわけです。
私は高齢者医療に携わってきたおかげで、様々な老いのパターンを目にしてきた。上手に楽に老いている人達、下手に苦しく老いている人達を見て“老い”を失敗しない方法はあるような気がする。
病気の中でも、特にこれだけはなりたくないと多くの人が思うのは、“がん”と“認知症”ではないか。癌は死ぬ危険性が高いし、認知症は自分がなくなるような恐怖があるから忌避される。
認知症という病気の本態は、未だ明確にはわかっていない。つまり認知症の予防として確実に有効なものはない、というのが本当のところだ。
それでも認知症にだけはなりたくないと、頑なに思い続ける人は少なくないだろう。では、認知症にならずに長生きをしたらどうなるのか?
93歳で亡くなった私の母は、最期まで頭はしっかりしていた。私と妻が様子を見に訪問すると、いつも「世話をかけて申し訳ない」「忙しいのに時間を取らせてすまない」、と謝ってばかりいた。母も認知症になっていれば、これほどまでにつらい現実に苛まれずに済むのに、と思わらざるを得なかった。
何事にもいい面と悪い面がある。医療者が医療のいい面しか語らないので、世間は「医療幻想」ともいうべき状態に陥ってくる。世間は医療者に、最高の技術と幅広い知識を備え、ミスを犯さず、患者の気持ちに寄り添う事を求める。
医療者も人間だから能力には限界があり、人柄も良い人ばかりではない。
厚労省や医師会の発表を見ると、認知症には早期発見と早期治療が重要である、と強調されている。しかし、本当にそうだろうか。
認知症を早く見つけても、治療法も悪化の予防法もわかっていないからだ。逆に、早期発見してしまうと、本人も周囲も認知症を強く意識するようになる。
自己暗示にかかり、落ち込んだりして、逆に進行を早める危険性もある。
だが、周囲も当人も認知症を受け入れる気持ちになれば、年を取ればこんなものか、と軽く受け止める事が出来るのではないか。
日本人の死因のトップは、がんである。
がん検診にも、メリットとデメリットがある。メリットは自覚症状が出る前にがんが見つかって、命拾いするという事である。デメリットは、まずは過剰診断である。少しでも異常があれば、「要精密検査」となり検査を繰り返す。検査被ばくの問題もある。胸部X線撮影はまだしも、マンモグラフィーや胃のバリウム検査などは、かなりの放射線を浴びる。
私はがん検診を受けた事がない。医者の友達にもがん検診を毎年受けている者はほとんどいない。毎年がん検診を受ける事の無駄をよく知っているからだ。
私はがん検診を受けなくてよい、と言っているのではなく、がん検診には無駄な側面があるという事なのだ。
がんは完全には治らないけれど、命を落とす事のない状態を続ける事が可能になってきた。いわゆるがんとの共存である。
以前は医者も患者も、がんを治したいと思い、強い治療をしていた。そのため
逆に患者が体力を失い、命を縮めることがあった。そこで、徹底的に治療するのではなく、程よいところでやめて様子を見るという戦略に変わったのだ。
2023年3月、世界的な音楽家、坂本龍一氏が亡くなった。氏は中咽頭がん、直腸がんを公表して、6回もの手術を受けた。闘病の最後に家族や医師に「つらい、もう逝かしてくれ」と漏らしたという。勿論本人は生きる事を望み、医療者も家族もそれに協力したのであろうが、結果的には坂本氏自身を苦しめる事になってしまったようである。誰でも医療の力で死を免れたいと思うだろう。
しかし、いったん死が避けられない状況になったら、余計な医療はせずに自然に任せるのが最も穏やかな最期を迎えられる。
死期を悟ったら、落ち着いて死を受け入れる事が最も自然で安楽に違いない。
そう心得ておくことが、余計な苦しみを避ける秘訣であり、同時に生きている今という時間の貴重さを実感する拠り所になるはずである。
ところが、現代では、もっと求めろ、もっと望めと煽り、苦しみのタネを増やす事にかかっているように見えます。
死や老いは受け入れた方が楽で、余計な問題も引き起こさないのに、それを否定する健康法や医療、お得な情報が世間にあふれています。これらはすべて裏にビジネス、すなわち金儲けが潜んでいます。赤字を見越してお得な情報を提供する人はいません。
毎日運動をして、夜更かしもせず、栄養バランスを考えて、肥満にも気を付けて、健康診断を欠かさず、健康に細心の注意を払っていても、老化現象は起こる。
がんや脳梗塞、認知症も、なる時はなる。その時、冷静に受け止められるだろうか。あんなに努力したのに、と余計な嘆きを抱え込んでしまわないだろうか。
努力しない人以上の苦しみに陥る危険もある。
長生きをしたいとか、いつまでも元気でいたいという思いは、誰にでもあって、それを捨てるのは簡単ではありません。では、どうすればいいのか。
それが出来る人に学ぶのがいいのではないでしょうか。
私の父が、よく口にしていたのは、
「無為自然」=作為的な事はせず、自然に任せるのがいい。
「莫妄想」妄想するなかれ=不安や心配や迷いは妄想だからしないほうがよい
「少欲知足」=欲を減らし、足るを知る事が苦しみをへらす。
父は糖尿になっても甘い物食べ放題、タバコ吸い放題、健康の為の運動や節制は一切しなかったが、「いい人生やった」と87歳で微笑みながら自宅で亡くなった。(勿論、病気が悪化して死んでも、受け入れるという覚悟の上だった)
人間は必ず死ぬのだから、自然な寿命を受け入れるように発想を変え、ある程度の高齢になれば医療には近づかないという選択肢もあると思う。
検査結果に一喜一憂する事もなく、薬の副作用で体調を損ねる事もなく、空いた時間とお金を好きな事に使える。自然な死はさほど苦しくない。死の直前に苦しむのは、医療が発達したせいで、無意味に死が引き延ばされるからである。
医療が発達する前は、誰しも家でそんなに苦しまずに亡くなっていた事からも明らかである。
以上
久坂部 羊(くさかべ よう)
1955年大阪生まれ。大阪大学医学部卒、大阪大学医学部附属病院の外科、麻酔科にて研修。大阪国際がんセンターで麻酔科医。神戸掖済会病院で外科医。
オーストリア他在外公館にて医務官として勤務。帰国後は在宅医療に従事。
2003年『廃用身』で作家デビュー、2014年『悪医』で第3回日本医療小説大賞を受賞。小説以外に『人間の死に方』『医療幻想』他も出版している。
『人はどう老いるのか』は2023年10月講談社より発刊。
2024.07
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