前回は、世界の人たちと日本人の思考の相違について『世界価値観調査』をベースに述べてみました。今回は日本で2021年度のベストセラーになった『スマホ脳』を取り上げます。
我々が幼い頃は“テレビ”にしがみついて親から怒られていました。しかし、“テレビ”と比較すると“スマホ”はより大きな問題が存在しているようです。
スマホ社会が生活に溶け込んでしまった現状を、著者の視点から警鐘を鳴らした本としてベストセラーになったのは、読者がその内容に共感したことに繋がります。
変化が速いデジタル社会の中で、我々の脳はそれに追いついているのでしょうか?
この『スマホ脳』を読んで再確認してみてはどうでしょうか。
デジタル社会に流されず、うまく共存できるヒントになるかもしれません。
スマホ脳
アンデシュ・ハンセン著
著者は1974年スウェーデン生まれ。名門カロリンスカ医科大学で医学を学んだ。
スウェーデンで今最も注目されている精神科医メンタルヘルスのインフルエンサー。
2016年刊行された前作『一流の頭脳』は世界的ベストセラーとなった。
この本は「運動するだけで、ストレスに強くなり、記憶力や集中力がアップする」事を数々の論文を引用して示した本である。
今回の『スマホ脳』は2019年に刊行され、スウェーデンでは42週にわたりベスト20にランクイン。学校や教育業界にも大きな影響力を与えている。
人間は、スマホの使用時間云々よりも、はるかに大きな問題に直面している。私たちが暮らす世界が人間にとって非常に異質なものだという事実。私たちが今やスマホを手放すことができなくなった時代において、だれもが理解しておくべき内容の本である。
現代人の生活に欠かせないスマホ。だがその便利さに溺れていると、私たちの脳は確実に蝕まれる。“うつ”や学力低下などスマホが及ぼす弊害を、最新研究をもとに明らかにする。
人類は地球上に誕生して以来、99.9%の時間を狩猟と採集をして暮らしてきた。人間の脳は、今でも当時の生活様式に最適化されており、現代のデジタル社会には適応していない。
スウェーデンでは、9人に1人以上が“抗うつ剤”を服用しているし、同様の統計が多くの国でみられる。私たちを取り巻く環境と、人間の進化の結果が合っていないことが、私たちの心に影響を及ぼしているのだ。
現在、私たちは1日に2600回以上のスマホを触り、10分に一度スマホを手に取っている。誰もが自分のスマホをじっと見つめている。私たちは依存してしまっているのだ。
なぜ、そうなったのか。答えは、私たちの脳内の報酬システムにある。
脳内の伝達物質であるドーパミンは、よく報酬物質だといわれるが、実はそれだけではない。ドーパミンの最も重要な役目は、私たちに何に集中するかを選択させる事だ。空腹時に食べ物が出てきたら、それを見ているだけでドーパミンの量が増える。つまり、増えるのは食べている最中ではない。それを食べるという選択をさせるために、ドーパミンが増えるのだ。
スマホもドーパミン量を増やす。それが、通知が届くとスマホを見たい衝動に駆られる理由なのだ。パソコンやスマホのページをめくるごとに、脳がドーパミンを放出し、その結果、私たちはクリックが大好きになる。
報酬システムを激しく作動させるのは、お金や食べ物、セックス、新しい経験のいずれでもなく、それに対する期待だ。
「何かが起こるかも」という期待以上に、報酬中枢を駆り立てるものはない。
例えば、ギャンブル。長い目で見れば損をするとわかっていても、スロットマシーンから離れられない。脳の報酬システムが不確かな結果に報酬を与えるから、ギャンブルの不確かさも魅力的に思える.チャットやメールの着信音が鳴ると、スマホを手に取りたくなるのもそのせいだ。何か大事な連絡かもしれない、と思うのだ。
アップル社を設立したスティーブ・ジョブ氏は、ある記者のインタビューで「自宅の壁は、スクリーンやiPadで埋め尽くされているんでしょ」と質問された時に、「iPadはそばに置くことすらしない。スクリーンタイムを厳しく制限している」と話した。
テクノロジーがどんな影響をあたるのか、ジョブス氏は的確に見抜いていた。自分の子供の使用には慎重であった。彼の子供が10代の時、彼等がiPadを使ってよい時間を厳しく制限させられていたのだ。
マイクロソフト社を設立したビル・ゲイツ氏は、彼の子供が14歳になるまでスマホは持たせなかったという。
現代のデジタルライフでは、私たちは複数のことを同時にしがちである。私たちは一度に一つのことにしか集中できない。複数の作業を同時にこなしていると思っていても、実際には作業の間を行ったり来たりしているだけなのだ。
短期記憶(短時間だけ残る記憶)をつくるには、脳は既存の細胞間のつながりを強化するだけでいい。新しい長期記憶を作ること(専門用語では「固定化」と呼ぶ)は、脳が最もエネルギーを必要とする作業だ。
この固定化がどのように行われるのか。まず、「何か」に集中する。そうやって脳に「これは大事なことだ」と語りかける。つまり、積極的にその「何か」に注目を向けなければ、このプロセスは機能しないのだ。
チャットやツイート、ニュース双方を次々にチェックして、間断なく脳に印象を与え続けると、情報が記憶に変わるこのプロセスを妨げることになる。絶えず新しい情報が顔を出せば、脳は特定の情報に集中できなくなる。情報を効率よく取り入れていると思いがちだ。だがそれは表面的なもので、情報がしっかり頭に入るわけではない。
SNSは、人と連絡を取り合うのに非常に便利な道具だ。だが、私たちはフェイスブックなどのSNSによって社交的になったのだろうか。2000人のアメリカ人を調査した結果、すべてSNSを熱心に利用している人のほうが孤独を感じていることが分かった。
では、なぜ孤独になり落ち込むのだろうか。その一つの可能性は、皆がどれほど幸せかという情報を大量に浴びせかけられて、自分は損をしている、孤独な人間だと感じてしまうことだ。
人間は今までもずっと競い合ってきた。しかし、今のフィールドはほんの20~30年前と比べても全く別のものになっている。SNSを通じて常にお互いを比べあっている世界は、私たちの精神に影響を及ぼす。フェイスブックとツイッターのユーザーの3分の2が、「自分なんかダメだ」と感じている。
ドーパミンは私たちを様々な行動に駆り立てる。そのドーパミンの放出が一番活発なのはティーンエイジャーの頃だ。この年代は衝動を制御する能力が成熟していない上に、激しい興奮を感じる時期でもある。
加えて、若者のほうが依存症になるリスクが高い。若者にアルコールを規制しているのは、それが大きな理由だ。しかし、スマホを持たせることに関しては誰も懸念していないようだ。
脳の報酬系を活性化する恐ろしい力を秘めているというのに。
現在、多くの学校でスマホ使用を禁止しているが、勉強するときに紙を使うこと自体にもメリットがあるのだろう。ある研究者は、小学校高学年のグループの半数に紙の書籍で短編小説を読ませ、残りの半分にはタブレット端末で読ませた。
その結果、前者のほうが内容をよく覚えていた。
スマホやパソコンに多くのことを任せるにつれ、それを操作する以外の知能が次第に失われてのではと怖くなる。自分で考えるのをパソコンやスマホに任せてしまうこともできる。これがまさしく、北欧のIQ低下傾向につながっているのだろう。
人間に残されている仕事は、おそらく集中力を要するものだ。皮肉な事に、集中力はデジタル社会で最も必要とされるものなのに、そのデジタル社会によって奪われてもいる。
16世紀に「印刷技術」が世に出た時に「近代技術によって私たちは情報の洪水に溺れ、自分で考えることができなくなる」とスイスの学者コンラート・ゲスナ―が警告した。
19世紀には鉄道の普及で「鉄道酔い」を警戒する悲観論者もいた。
20年後の「電話」の発明では、雷雨や邪悪な魂を引き寄せられる、と社会に不安を広げさせた。
1950年代では、テレビには催眠効果があると懸念された。
技術革新があるたびに、ハルマゲドンを予言する人が必ずいるものだ。
昔、1日6~7時間も列車に乗る人はいなかった。誰も1日6時間も電話でしゃべらなかった。コートのポケットにテレビを持ち歩く人もいなかった。だが、スマホやパソコンは1日中使っている。それがこれまでの技術革新とは異なる点だ。
今の「1日24時間、週に7日」のデジタルライフが、私たちに甚大な影響を及ぼさない、とは考えられない。
人間にはすぐ気が散るという自然な衝動があり、スマホはまさにそこをハッキングした。
私が、ある講演で「デジタル社会が人間を注意散漫にしている。」と語ったとき、ある男性が、「今では、狩猟時代のライオンではなく、フェイスブックに気を散らされるようになった。それは単に、人の起源の注意散漫さが戻っただけでは?脳が進化した通りになっただけでは?」と尋ねられた。
まさにその通りかもしれないが、問題は、その過程で本質的なものを失っているかもしれないことだ。スポーツや楽器、プログラミング、記事の執筆、料理等々、あなたに特技があるならそれが何であれ、集中して努力してきた覚えがあるだろう。
「それでも、この新しいデジタルライフにもそのうち適応するのでは?」とその男性が食い下がった。
数々の技術の発明は私たちの働き方やコミュニケーションの方法だけでなく、考え方にも影響を与えてきた。デジタルライフもそれと同じ可能性はあるが、だからと言って必然的に良くなるとは限らない。
作家のニコラス・カーは「一冊の本を開けば、突如として他の人間の思考に身を置くことができ、その人が書き記した文章に集中することができる。インターネットは本とは真逆の存在だと考えている。インターネットは深い思索を拡散してはくれない。表面をかすめて次から次へと進んでゆくだけだ。」
デジタルライフは、目新しい情報とドーパミン放出を永遠に求め続けて。
私たちは未知の世界にいる。人間が進化し、適応してきたのとはかけ離れた世界だ。しかし今でも私たちは狩猟採集民の脳を持っていて、そこら中に危険を探そうとし、すぐにストレスを感じ、気が散り、同時に複数の作業をするのが苦手だ。デジタルな世界に生きているというのに。その点にもっと配慮すれば、私たちはより健康に、健全に生きられるはずだ。
長期にわたるストレスが、なぜ健康に壊滅的な影響を与えるのか。
スマホを過剰に使うと、なぜ周囲の人に関心を持てなくなるのか。フェイスブックやインスタグラムがデジタルな親指マークやハートをつけるタイミングを調整して、私たちの報酬系をハッキングしている。
なぜ運動でストレス耐性がつくのか。スマホが枕元にあるとなぜ睡眠不足になる危険性があるのか。脳が進化してきた世界を知ることで、そういった現象を理解できるようになる。
それでは、自然に近いほうがいい、と思うのは思考の罠である。私たちの祖先がそんなように暮らしていたからといって、それが必然的に良いという意味ではない。先祖が食べていたものが健康的だという確証もない。自然でないことはたくさんある。
不整脈で亡くなる方がいるが、今はペースメーカーが予防してくれる。視力が悪くなって焦点があわなければ、メガネがそれをカバーしてくれる。単純に進化の見地から「自然」が良いかどうかをはかっても、それが良いとも悪いとも言えないのだ。
この本は、答えばかりを集めた本ではない。問いを提議する本でもあるのだ。
史上最大の行動変容の中で、人間が自分自身に問いかけなければいけないこと。
ましてや、変化のスピードが増しているこの時代なのだから。
よく眠って元気になりたい人たち、集中力を高め、現代のデジタルライフから受ける影響を最小限にとどめたい、そんな時代の私たちが出来ることを筆者がアドバイスしてくれた項目を下記します。
デジタル時代のアドバイス
・自分のスマホ利用時間を知ろう
自分を知ることが、変化への第一歩
・目覚まし時計と腕時計を買おう
スマホでなくてもいい機能は、スマホを使わないように
・毎日1~2時間、スマホをオフに
・プッシュ通知もすべてオフにしよう
・スマホの表示をモノクロに
色のない画面のほうがドーパミンの放出量が少ない
・運転中はサイレントモードに
危険な瞬間に気が散るリスクが減る
職場で
・集中力が必要な作業をするときはスマホを手元に置かず、隣の部屋に置いておこう
・チャットやメールをチェックする時間を決めよう
人と会っているとき
・友達と会っているときはスマホをマナーモードにして少し遠ざけて置き、一緒にいる相手に集中しよう
・あなたがスマホを取り出せば、周りにも伝染する
子供と若者へのアドバイス
・教室でスマホは禁止
学習能力が低下する
・スクリーンタイムを制限し、代わりに別のことをしよう
宿題をする、運動をする、友達に会うなど別のことに集中する時間を決めよう
・良い手本になろう
私たちは相手を真似ることで学ぶ
寝るとき
・スマホやタブレット端末、電子書籍リーダーの電源を切ろう
・スマホを寝室に置かない
朝起きるときには、目覚まし時計を買おう
・どうしてもスマホを寝室に置くなら、着信音を消しマナーモードに
・寝る直前に仕事のメールを開かない
ストレス対処法
・ストレスの兆候を見逃さないようにしよう
これらの兆候はストレス以外のことが原因の可能性もある。
(本書の中にその詳細が書かれている)
不明な場合は医療機関に連絡を。
運動と脳
・どんな運動も脳に良い
中でも一番いいのは心拍数を上げる運動だ。
脳から見れば、ただ散歩するだけでも驚くほどの効果がある。
・最大限にストレスレベルを下げ、集中力を高めたければ週3回45分、できれば息が切れて汗もかくまで運動するといい
SNS
・積極的に交流したいと思う人だけをフォローしよう
・SNSは交流の道具と考えて
・スマホからはSNSをアンインストールして、パソコンだけ使おう
2022.04
【番外編】
都市伝説 !?~信じるか信じないかはあなた次第~
先日鳥越神社例大祭が行われ、曳き台ではありましたが3年ぶりに御本社が渡御されました。
その鳥越神社と平将門公の北斗七星について書きました。
信じるか信じないかはあなた次第 !?
2022.06
戦後生まれの人間にとっては、学校の授業で近代の歴史をほとんど学べなかったではないでしょうか。特に、太平洋戦争は表面的な事実関係のみでした。一方、米国では、第二次世界大戦を、戦争が終了してから様々な角度から史実をベースに解明し究明しております。勿論、真珠湾攻撃についても同様に、議会も含め各種の調査委員会が発足し、公文書も含め記録資料をベースに事実関係を明らかにされております。
米国では歴史の経過とともに、その実態を取り上げられているにもかかわらず、日本では
知られていない事実が多くある事も認識しなければいけないのではないでしょうか。
米国で発表された物も含め、皆様に何回かに分けて案内させて頂きます。
最初の発表は、昭和20年(1945年)8月15日の『終戦の詔書』玉音放送についてです。
我々が玉音放送として認識しているのは、昭和天皇の「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という言葉のみをテレビ等で何度か聞いているぐらいではないでしょうか。
一方、その全文に目を通したことはないのではないでしょうか。勿論、その原文は理解できない言葉も多いことも事実です。そこで、『終戦の詔書』の現代語訳全文を読んでもらいたいと思います。そしてその原文も添付します。
昭和天皇は明治34年(1901年)4月29日生まれですので、『終戦の詔書』の放送は昭和天皇が44歳の時の言葉となります。
『ポツダム宣言』は日本の“無条件降伏”が条件でしたので、天皇陛下が『終戦の詔書』の作成に当たって“無条件降伏”を受け入れるという事は、自らの死を覚悟してその文面を考え、『終戦の詔書』として録音されたのではなかったかと思料します。
昭和20年9月27日、昭和天皇が連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーを訪問しました。公邸玄関にはマッカーサーの姿はなく、2人の副官が出迎えました。
マッカーサーの回顧録では
「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねる為にここに来ました』――死を伴う責任を進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動を覚えた。かって、戦いに敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例がない事と思う。」と書いています。
感動したマッカーサーは予定を変更して、昭和天皇を玄関にまで出て見送りました。
次回の予定は、米国 国会議員が発表されたものです。それは極秘文書であった公文書や史実からの分析されたもので、その時の天皇陛下の心情が書かれた文脈もあります。そして、私達が知らなかった事実も沢山あります。
国家の対立、主義の対立、民族の対立と様々な要因で起こる“戦争”そのものを私達は、将来に向けて起こさない国家、起こさせない国家にして行かなければなりません。その為にも、太平洋戦争を発生させた事、発生させられた事を再認識してもらいたい。その為にも、まず最初に昭和天皇の『終戦の詔書』を最初に読んでもらいたいと思います。
終戦の詔書(玉音放送)全文 現代語訳
世界の情勢と日本の現状を深く考えた結果、緊急の方法でこの事態を収拾したいと思い、忠義であるあなた方国民にこのことを告げます。私はポツダム宣言を受け入れる旨をアメリカ、イギリス、中国、ソビエトの4か国に伝えよ、と政府に指示をしました。
日本国民が平穏無事に暮らし、全世界が栄え、その喜びを共有することは、歴代の天皇が残した教えであり、私も常に心に持ち続けてきました。
アメリカとイギリスに宣戦布告をした理由も、日本の自存自衛と東アジアの安定を願うからであり、他国の主権を犯し、領土を侵略すると言ったようなことは、私はもとから考えていません。ですが、戦争は4年も続き、陸海将兵の勇敢な戦いぶりも、多くの官僚の努力も、1億の国民の奉公も、それぞれが最善を尽くしてきましたが、戦況はよくならず、世界の情勢もまた日本に有利ではありません。そのうえ、敵は新たに開発した残虐なる爆弾を使用して、多くの罪のない人たちの命を奪い、また、その被害が及ぶ範囲は計り知ることが出来ません。このまま戦争を続ければ、日本民族の滅亡を招くだけでなく、世界人類の文明も破壊してしまう事になるでしょう。そんな事になってしまえば、わが子である国民を護り、それを預かる私は、歴代天皇の霊にどうやって謝罪すればよいか分かりません。これが、私が政府にポツダム宣言に応じるように命じた理由です。
私はアジア解放の為に、日本に協力した友好国の期待に応えられなかったことに対して、大変申し訳なく思っています。戦地で命を失った者、職場で命を失った者、不幸な運命で命を落とした者、又その遺族の事を考えると、悲しみで心が引き裂かれる思いです。戦争で傷を負い、被害にあって家や仕事を失った者の生活についても、とても心配しています。
これから日本が受けるであろう苦しみは、大変なものがあります。国民の皆が思う悔しい気持ちもよくわかります。けれども私は、時の運命に従って、耐えられない事にも耐え、我慢できない事にも我慢をし、未来の為に、平和の道を開いていきたいと思います。私は日本の国家を護り、忠義である善良な国民の真心に信頼を寄せ、常に国民と一緒にいます。
感情のままに事件を起こしたり、国民同士で争って、事態を混乱させることや、人が行うべき道を誤り、世界から信頼を失うことは、私が最も戒めたい事です。
国が一つになって、家族のように団結をし、日本の不滅を信じ、国家の再建と繁栄の任務は重く、その道のりが遠いことを心に留め、持てるすべての力を将来のための日本に注ぎ、道義心を大切にし、志を固く守って誓い、我々の真価を発揮して、世界の発展に遅れを取らないように、努力をしなければならない。
あなた方国民は、これが私の意志だと思って行動をしてほしい。
玉音放送の原文
朕、深く世界の体制と帝国の現状とに鑑み、非常の措置をもって時局を収拾せんと欲し、
ここに忠良なるなんじ臣民に告ぐ。
朕は帝国政府をして米英支蘇(べいえいしそ)四国(しこく)に対し、その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。
そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)を図り、万邦共栄の楽(たのしみ)をともにするは、
皇祖皇宗の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)おかざるところ。さきに米英二国に宣戦せるゆえんもまた、実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出て、他国の主権を排し領土を侵すがごときは、もとより朕が志にあらず。
しかるに交戦すでに四歳(しさい)を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善尽くせるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず。しかのみならず敵は新たに残虐なる爆弾を使用してきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ真(しん)にはかるべからざるに至る。しかもなお交戦を継続せんか、ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、ひいて人類文明をも破却(はきゃく)すべし。
かくのごときは朕、何を持ってか億兆の赤子を保(ほ)し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。
これ朕が帝国政府をして共同宣言に応じせしむるに至れるゆえんなり。
朕は帝国と共に終始東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。
帝国臣民して戦陣に死し、職域に殉じ、非命にたおれたる者および、その遺族に思いを致せば、五内(ごだい)ために裂く。かつ戦傷を負ひ、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深くシン念するところなり。
おもうに今後、帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず。なんじ臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕よくこれを知る。しかれども朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
朕はここに国体を護持し得て、忠良なるなんじ臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんい)し、常になんじ臣民と共にあり。
もしそれ、情の激するところみだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局をみだり、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは朕最もこれを戒む。
よろしく挙国一家、子孫相伝え、かたく神州(しんしゅう)の不滅を信じ、任重くして道遠きをおもい、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操(しそう)をかたくし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。
なんじ臣民それよく朕が意を体(たい)せよ。
2022.07
前回からの戦争をテーマにした第2弾はハミルトン・フィッシュ氏が戦後に「太平洋戦争の真実」として証言した内容と、その後同氏が出版した書籍からのものです。
ハミルトン・フィッシュ氏は1888年ニューヨークに生まれ、第一次世界大戦では軍人として参戦しています。1919年米国に戻り、1920年から1945年合衆国の下院議員を務めました。父も下院議員であり、祖父は国務長官も務めた政治一家でもあります。
終戦後、フィッシュ氏は様々な文書記録を調べた結果、アメリカにとって不利な「太平洋戦争の真実」を証言したことから「修正主義者」のレッテルを張られたこともあり、日本ではマスコミや大学でもアメリカに気遣って紹介しなかった為、日本ではほとんど知られていませんでした。
《この時代の米国での「修正主義者」とは「歴史修正主義者」の意味合いで、正しいと信じられている歴史に対し反論批判する人を指し、社会からは否定的に捉えられ批判排斥される事が一般的であった》
“正義の戦争”という概念があります。正義の実現が目的であれば戦争は正当化できるとする考え方です。開戦の常套句です。戦争は平時の価値観「殺すな」を捨て去って、「殺せ」という有事の価値観を強制するものです。
ごく一部の指導者の意思によって戦争を起こした国の人達、戦争に巻き込まれた国の人達、どちらの国の人々も一般の人たちも含め非常に多くの人の命を失わせてしまいます。それによって、生涯にわたりその家族や親族、知人友人の深い悲しみや苦しみを生じさせてしまうのです。
「太平洋戦争の真実」
ハミルトン・フィッシュ
当時共和党下院議員であったハミルトン・フィッシュは、ヨーロッパ戦に干渉したがるルーズベルトに反対していた。また、当時アメリカ世論の80%以上の国民は、アメリカと関係のない(と言われていた)第1次世界大戦のヨーロッパで多くの若者の死傷者を出した事もあり、厭戦気分が蔓延していた。ヨーロッパやアジアの争いに巻き込まれる事を拒否していました。その世論の流れを一気に変えたのが真珠湾攻撃でした。
ルーズベルト大統領は「アメリカが誠意をもって対日交渉を続けているさなかに、日本は卑怯にも真珠湾を攻撃した」と1941年12月8日、日本に対して宣戦布告を求める議会演説(恥辱の日演説)を行なった。
戦争そのものに反対していたフィッシュではあったが、その議会において、日本の真珠湾攻撃に大きく憤り、ルーズベルトの宣戦布告要請に対し、それに続き共和党を代表して支持表明の演説を行った。この演説をラジオ通じて非常に多くの米国市民が聞いていた。そして、アメリカ国民も一斉にそれまでの厭戦の世論の流れを変えたのである。
ハミルトン・フィッシュの支持演説文
「私は、外国における戦争に介入する事に一貫して反対してきましたが、同時に、もしも我々が外国勢力により攻撃を受けるか、または合衆国議会が米国的かつ憲法に合致した方法で宣戦布告した場合には、大統領とその政府を最後まで支持する、という事も繰り返し表明してきました。神々は、その滅ぼそうとする者たちをまず狂気にさせます。
日本は、完全に乱心するに至り、挑発されない先制攻撃を仕掛ける事によって、その陸、海軍及び国家自体にとっての自殺行為を犯しました。私は、適当な時期に前世界大戦と同様に、戦闘部隊の、そして望むらくは有色人種部隊の司令官として従軍する事を申し出るつもりです。米国を防衛し、戦争に狂った日本人の悪魔たちを全滅させる為ならば、私はいかなる犠牲をも払う事でしょう。今や戦いに臨むのでありますから、アメリカの伝統に従い、昂然と頭を上げていこうではありませんか。
そして、この戦争は、侵略に対抗し祖国領土を守るためだけのものではなく、全世界の自由と民主主義を守るための戦いであることを、かつ我々は勝利を得るまでは戦いを止めないことを、世界に知らしめようではありませんか。私は、全米国市民、特に共和党員と非介入主義者に対し、個人的見解や派閥意識を捨て、合衆国軍隊の勝利を確保するために、我々の総司令官である大統領の下に団結するよう要請します。
わが祖国よ!外国と接するにあたり、祖国が常に正しくあるよう、しかし、正邪にかかわらず、わが祖国よ!」
ハミルトン・フィッシュの証言(太平洋戦争の真実)
「私たちは日本が和平交渉の真最中に我が国を攻撃したものだと思い込んでいた。
1941年11月26日の午後、日本の野村大使に国務省で最後通牒が手交された。それは、ハル国務長官が渡したものである。ワシントンの議員の誰一人として、その事を知らなかった。民主党の議員も共和党の議員も、それを知らされていない。」
フィッシュは、ルーズベルトの前任で共和党のフーバー大統領の抑制的な対日外交を知っていました。それだけに、ハル・ノートの内容が日本に対する最後通牒であった事をすぐに理解しました。フィッシュは、ハル・ノートは議会の承認を得ない対日最後通牒であると言い切っています。それは、議会だけに開戦権限を認める合衆国憲法の精神に背いた外交文書だったのです。フィッシュはルーズベルトを軽蔑するとともに、自分がその嘘に乗せられて、対日宣戦布告を容認したことを強く恥じました。
その後の研究で、日本の天皇も指導者も対米戦争を望んでいなかった事までが、明らかになると、彼の怒りは頂点に達します。
その後の自著のなかでフィッシュはこう述べています。
《1976年出版『The Other Side of the Coin』 1983年出版『Tragic Deception』》
「私はルーズベルトを許す事が出来ない。彼はアメリカ国民を欺き、全く不必要な日本との戦争にアメリカを導いた。日本の指導者が開戦の決断をする事になった最後通牒ハル・ノートは、ルーズベルトが真珠湾攻撃を「恥ずべき行いの日」と呼んだ事にちなみ、「恥ずべき最後通牒」と呼ぶのが適切と思われる。
日本は面積がカルフォルニアにも満たない人口8000万人の比較的小国であった。天然資源はほとんど所有せず、又冷酷な隣国であるソヴィエトの脅威に常に直面していた。
天皇は名誉と平和を重んじる人物であり、側近の攻撃的な軍国主義者を制止するために出来る限りの事を行っていた。日本はフィリピン及びその他のいかなる米国の領土に対しても、野心を有していなかった。しかしながら、一つの国家として、日本はその工業、商業航行及び海軍の為の石油なしには存立出来なかった。日本は、米及び石油の購入を平和的に保証されたならば、どのような条件にでも署名し、南方に対するいかなる侵略も停止したであろう。ただ、自由貿易を認めるだけでよかったのだ。(中略)
日本が近隣諸国からコメ、石油、ゴム、錫その他の商品を購入することさえも出来ないくらいの制限を米国によって課せられなければならないのか。こんな理不尽な話はあり得ない。
米国の最後通牒を受け取った時点の日本は、4年にわたる戦争の結果、中国のほとんどの海岸線、大都市、かつ広範な領土及び満州全土を掌握し、極東最大の勢力となっていた。このような強力な国家に対し、米国はこれ以上何を要求できるというのか。
天皇及び近衛首相は、平和を維持するために信じられないほどの譲歩をするつもりでいたのである。非常に平和愛好者である首相の近衛公爵は、ルーズベルトとの会談を繰り返し要望していた。在日米国大使であったジョセフ・グルーは、日本がどれだけ米国と平和的関係を保ちたいと希望していたか承知しており、首脳会談を強く要請していた。日本は米国との開戦を避けるためならば、何でもする用意があったであろう。
しかし、ルーズベルトはすでに対日戦、対独戦を行うことを決意していた、と言うだけでの理由で日本の首相との話し合いを拒否した。
日本との間の悲惨な戦争は不必要であった。これは共産主義の脅威を、より恐れていた日米両国にとって、悲劇的であった。
我々は、戦争から何も得る事がなかったばかりか、友好的だった中国を共産主義者の手に奪われる事になった。(中略)
日本人は、高度な忠誠心、愛国心に満ちた、非常に感受性の強い、誇り高き、かつ勇敢な民族である。このような民族に「恥ずべき最後通牒ハル・ノート」を突き付ければ、必ず戦争になるとルーズベルトは確信していた。
私はルーズベルトを許す事が出来ない。この大戦は米国に30万人の死亡者と70万人の負傷者、そして5000億ドルの支出を米国にもたらした。日本には軍人、民間人合わせて300万人以上の死亡者をもたらした。日本の物的、人的、精神的被害は計り知れない。この責任はルーズベルトが負っているのだ。」
このように、フィッシュは戦争で命を落としたアメリカ人の犠牲者を悼むだけでなく、日本人に対しても哀悼の念を表しています。
第3弾へ続く
2022.09
第3弾は日本本土への大空襲についてです。
2017年8月にNHKで放送された「なぜ日本は焼き尽くされたのか」の取材情報を基に執筆されました。著者はNHKグローバルメディアサービス報道番組部ディレクターである鈴木冬悠人氏です。これはアメリカ側の視点から見た“日本大空襲”の真相です。
なぜ、人類史上でも類を見ない無差別空襲が行われたのか?
1944年(昭和19年)から各地で軍需関連を中心とした空襲はありましたが、1945年(昭和20年)3月10日東京下町を中心にナパーム弾であるM69焼夷弾を投下した大空襲から大規模にそして無差別に日本全土へ空襲が始まりました。
3月10日に罹災した家屋は約27万戸、罹災者約100万人、死者約10万人と言われています。
当時、台東区は浅草区と下谷区に分かれていましたが、1940年(昭和15年)当時は約10万世帯、居住者46万人でしたが、大空襲の3か月後1945年(昭和20年)6月には約1.7万世帯居住者7万人となってしまいました。
浅草区の罹災面積は4.66㎢。浅草区総面積の約90%が罹災したことになります。
日本の大空襲「実行犯」の告白
鈴木冬悠人著
太平洋戦争末期に、敗色濃厚の日本に対し、アメリカは徹底した爆撃を行ったのはなぜなのか。長年埋もれていた米軍内部資料を基に、無差別爆撃の背景を明らかにする。
終戦の1年前1944年、米軍は陸軍と海軍が互いの威信をかけて、日本本土の上陸を競い合っていた。
当時、アメリカには“空軍”は存在しておらず、陸軍の下部組織に位置づけられ『陸軍航空軍』と呼ばれていた。当時の航空軍司令官、ヘンリー・アーノルド大将は空軍の独立にこだわっており、その為には日本本土の直接爆撃で戦果をあげる事が絶対条件であった。
当初、日本本土への空爆は軍需産業など主要な社会・経済的機能をピンポイントで爆撃し戦争遂行能力を奪う作戦を目指した。中島飛行機武蔵野製作所がその目標の一つであったが、
その作戦はうまくゆかず、1944年11月24日111機のB-29が出撃、目標の工場にたどり着いたのは25機のみであり、工場に命中したのは7%で、その3日後に81機が出撃したが、視界が悪く爆撃出来なかった。3回目は12月3日72機が発進し、39機が工場上空に到達するも、その命中率は2.5%で、工場を破壊する事が出来なかった。
成果が出せなかったアーノルドは空軍独立の野望が潰えてしまう危惧を抱いた。
航空軍への風当たりが強く、最も厳しかったのが、ルーズベルト大統領であった。
「B-29に費やしたお金は、最終的に“それだけの価値があった”と示せ」と命令された。
追い詰められたアーノルドは、カーチス・ルメイに「選定された都市への焼夷弾爆撃を試せ」と指令を下した。精密爆撃よりも、焼夷弾による空爆を優先する事となった。
1945年3月9日325機のB-29が出撃し東京大空襲が始まった。その数は32万7000発。
この大空襲での死者は12万人と言われているが、正確な人数はいまだに判っていない。
その後、6月17日の鹿児島への焼夷弾爆撃で、それまでの大都市(名古屋、大阪、神戸、京都、横浜等々)への爆撃から地方の中小都市へ焼夷弾爆撃が拡大していった。
日本本土への上陸を目指していた陸軍と海軍は、沖縄での戦闘に勝利しようとしていた。
日本への上陸作戦が11月1日に決行予定となっていた事から、アーノルドは、上陸作戦が始まる前に航空軍の力で戦争を終わらせたかったのである。
8月15日の終戦まで空爆は約2000回も行われた。237か所、約2040万発の焼夷弾。
一般市民の犠牲をいとわない無差別爆撃という戦略の原点は、航空軍の戦略の基礎を築いたウイリアム・ミッチェルが、1919年のレポートでこう述べている。
「大国間で行われる戦争は、その国のすべての要素、男、女、子供を含んでいる。女性や子供は軍需品やその他の必要物資の生産にかかわり、国の産業や軍事力を支える。この事から、すべての者は戦闘員とみなされるべきだ。」
1947年、アメリカ陸軍航空軍は、その戦果が認められ “アメリカ空軍”として独立を果たす。アーノルドは最初にして唯一の空軍元帥に昇進。 “空軍の父”として後世に名を残すことになった。
以上
戦後、日本の軍人・軍属は国から60兆円の補償を受ける事が出来たが、空襲被害を受けた一般の人たちに対する補償はその対象外となっており、現在も変わっていない。
一方、日本本土への大空襲、広島、長崎の原爆を指揮した総責任者カーチス・E・ルメイは1964年勲一等旭日大綬章が授与されている。
『日本の航空自衛隊育成に協力した』との事由が公式の発表である。
その時の総理大臣佐藤栄作氏は「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然。大国の民とはいつまでもとらわれず、今後の関係、功績を考えて処理すべき」と述べている。
推薦人となった当時の防衛庁長官小泉純也氏(小泉純一郎元総理大臣の父)は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」と述べている。
勲一等の授与は天皇が直接手渡す『親授』が通例だが、昭和天皇はこれを行わなかった。
戦争によって、心も身体もそして家屋も含めた財産も共に最も被害を受けるのは一般の国民である。
第4弾へ続く
2022.10
今回連載しました太平洋戦争に関連した4番目の書面が最終稿となります。
今回は、アメリカ合衆国第31代大統領(1923~1933)であるハーバート・フーバー氏による、第二次世界大戦全般について20年かけて検証した回顧録『FREEDOM BETRAYED』であり、日本語題名は『裏切られた自由』で上巻・下巻合わせて1300頁以上のフーバー氏が生涯をかけた力作となっています。
当時さまざまな情報にもアクセスする事が出来たアメリカの最高権力者の一人であり、信ぴょう性が非常に高いものです。
この回顧録は、従来の見方とは真っ向から対立する歴史観から長い期間公開されませんでしたが、2011年にジョージ・ナッシュ氏の編集で米国フーバー研究所から刊行され、日本語版は2017年に渡辺惣樹氏の翻訳によって出版されました。
《フーバー氏は1874年生まれ、1964年90歳で逝去》
(この日本語版書籍は、台東区中央図書館に所蔵されております)
『裏切られた自由』の本文からの抜粋(序文として)
《本書では1941年以前の対日関係を詳しく記することを目的としていない。しかし、我が国が戦争に突入する事になった直接の原因に日本がなっている以上、真珠湾攻撃に至るまでの経緯を書かないわけにはいかない。アメリカ政府は(対日交渉の経緯を)国民に隠していた。そしてその後の教育でも、何があったかの歴史の真実を教えていない。だからこそ、対日交渉の経緯はしっかりと書いておかなくてはならない。》
《国民も議会も我が国(アメリカ)の参戦に強く反対であった。したがって、大勢をひっくり返して参戦を可能にするのは、ドイツあるいは日本による我が国への明白な反米行為だけであった。ワシントンの政権上層部にも同じように考える者がいた。彼らは事態をその方向に進めようとした。つまり我が国を攻撃させるように仕向ける事を狙ったのである》
《ハルは自身の回顧録の中で、ここ(本書)で記した日本政府との交渉の模様をほとんど書いていない。そして交渉についてはただ否定的に書いている。・・・その文章には真実がほとんど書かれていない。》
《近衛(首相)の失脚は二十世紀最大の悲劇の一つとなった。彼が日本の軍国主義者の動きを何とか牽制しようとしていことは称賛に値する。彼は何とか和平を実現したいと願い、その為には自身の命を犠牲にすることも厭わなかったのである。》
《私は、日本との戦いは狂人ルーズベルトが望んだものだというと、彼[マッカーサー]はそれに同意した。》
《日本に対して原爆を使用した事実は、アメリカの理性を混乱させている。・・・原爆使用を正当化しようとする試みは何度もなされた。しかし、軍事関係者も政治家も、戦争を終結させるのに原爆を使用する必要はなかったと述べている。》
この回顧録は第二次世界大戦全般について書かれたものですが、今回は日本の開戦に関連したごくごく一部を要約した書面である事をご了解ください。
裏切られた自由
ハーバート・フーバー著
ワシントン政府は、日本が連合国のどこかを攻撃することはわかっていた。
ウェデマイヤー将軍の著書『ウェデマイヤー報告書』では「12月6日、解読された暗号は、日本が翌日に、太平洋中央部あるいはフィリピンないし蘭領東インドのどこかを攻撃することを示唆していた。この時点で、我が軍の最高指揮官である大統領は、ラジオを使って、直ちに世界に発する事が出来た。それをしていれば、シンガポールから真珠湾まで、直ちに警戒態勢に入ることが出来た。」
当時、ワシントンの海軍通信部で機密保全を担当していたサフォード大佐は、戦後真珠湾攻撃の調査を命じられたトーマス・ハート海軍提督による調査に対し、次のように答えている。
「ワシントン時間の12月6日午後9時、日本が対米宣戦布告するという確かな情報を得た。布告の時間は近々に示されるという事だった。」サフォード大佐は暗号解読と同時に、軍情報部に報告されたと証言していた。
ルーズベルト大統領は、警告を発する十分な時間があった。もし警告が発せられたら、日本は奇襲攻撃を中止した可能性もあった。いずれにせよ、3500人の米国人を、反撃の機会もないままで死なせることはなかったのである。
12月16日、キンメル提督(海軍)とショート将軍(陸軍)には、それぞれハワイの司令官を解任するという命令が電信で伝えられた。大統領に命じられたロバーツ最高裁判事が調査委員会の長となり、その報告書には、「ハワイの二人の指揮官が警戒を怠り、防衛準備が出来ていなかった」と非難するものであった。
アメリカ国民はワシントンの報告に満足しなかった。
1944年2月~6月海軍はハート提督による調査を実施、同年7月~10月陸軍も調査委員会を設けた。その報告書はマーシャル将軍を含む高官の不注意を非難した。彼らは、傍受された暗号から奇襲の情報をつかんでいた。それをショート将軍に知らせて警戒を促さなかった。この事に対する批判だった。
海軍調査委員会と陸軍真珠湾委員会の報告書は、1945年8月29日まで公開されなかった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙のアーサー・クロックはこの件について次のようにコメント。
〈こうした報告書は慎重だった。ギリギリのところで、ホワイトハウスの責任までは踏み込まなかった。それでも軍や政府の外交の詳細をかなり明らかにした。ルーズベルト大統領は(まだ戦争が続いていただけに)大統領が軍の最高司令官であるという点を強調し続けていた(そのため報告書はホワイトハウスの責任には踏み込めなかった。)〉
国内世論の圧力で、陸海軍は7つの調査を実施したことになる。しかし、軍法会議は開かれなかった。開かれていれば、キンメル提督もショート将軍も裁判の場において彼ら自身で説明し(実際何があったかを暴露し)、弁明する事が出来たはずであった。
ワシントン議会は政府や軍による調査に納得しなかった。
1945年11月には議会に(上下両院合同)調査委員会が設置された。1946年5月まで実施された。調査は『真珠湾攻撃』の表題でまとめられた。
その報告者は政治的配慮をせざろう得なかった。メンバーの過半数は与党議員であった。
(民主党6名、共和党2名)。少数派の調査委員の一人であったキーフ議員(共和党)は次のような意見を付記した。
「私はハワイの司令官の責任を追及するためにいかなる判断基準を適用するにせよ、その基準は、ワシントンの高官にも同じように適用されるべきだと言い続けてきた。多分意図的ではないのだろうが、ハワイを責める一方でワシントンの責任を最小化したいとの思いがあったのではないか。私にはそう感じられた。」
少数派の意見書は次のような内容であった。
陸海軍の得た情報は、窮迫する戦争の可能性を示しており、その情報は政府上層部に伝えられていた。そうした情報は、危機に対処すべき責任者、つまり、大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、参謀総長、海軍作戦部長に上げられていた。
マーシャル将軍とスターク提督は、陸海軍共に対日戦の準備が整っていないことを理由に、日本との断交を遅らせるよう大統領に要請していた。その要請は11月5日及び同27日になされたが、大統領は拒否している。
ワシントン上層部は、キンメル提督及びショート将軍に日本との交渉の進捗状況や、傍受された暗号通信情報について知らせていない。彼らは二人に対し日本の攻撃の緊迫性を伝える事が出来た。そうすれば真珠湾の防衛準備が可能になり、完璧な警戒態勢を敷く事が出来た。
ロバート・A・セオドール提督は、真珠湾の駆逐艦隊司令官であった。彼は(明らかになった)事実を検討したうえで、次のように述べている。
〈ルーズベルト大統領は、日本に対する外交的、経済的圧力を緩めることなく徐々に強めていった。日本を戦争に追いやることが狙いだった。そして同時に、太平洋艦隊を真珠湾に置いたままにした。これは奇襲攻撃の呼び水であった。大統領のやり方は完全なる外交的勝利だった。日本に先に戦争行為に出てもらいたいという思いが、大統領や彼の文官顧問らに、軍事的なアドバイスが考慮されていたら、真珠湾攻撃による被害も多少は軽減されていたに違いない。〉
客観的な視点を持つ英国の歴史家ラッセル・グレンフェル大佐は、次のように書いている。
〈ある程度の事情が分かっている者は、日本が悪質な奇襲攻撃をアメリカに仕掛けたなどとは考えない。真珠湾攻撃は、予期されていただけではなく期待されていた。ルーズベルト大統領がアメリカを戦争に導きたかったことに疑いの余地はない。ただ、政治的な理由で、最初の一撃は相手側から発せられる必要があった。だからこそ日本に対する締め付けを強めていったのである。その締め付けは、自尊心のある国であれば、もはや武器をとるしかないと思わせるところまで行っていた。アメリカ大統領によって日本は、アメリカを攻撃させられることになっていた。オリバー・リトルトンは英国の軍需生産大臣であったが、1944年に、「日本は真珠湾を攻撃するよう挑発されたのである。アメリカが戦争に無理やり引きずり込まれた、などと主張することは茶番以外の何でもない」と述べている。〉
我が国(米国)はあの戦争に参入し悲惨な戦いを経験した。我が国の参戦によって生まれた惨禍を、今や人類全体が味わうことになった。この悲惨な状況に至る最初の事件はおよそ30年前にすでに始まっていたのである。真実の歴史がしっかりと語られること、そして、多くの戦争の犠牲(者)から教訓を学ぶことが重要である。たくさんの人が亡くなった。その原因は、指導者の拙い政治指導にあった。そのことが忘れられることがあってはならない。だからこそ私はこの回顧録を執筆した。
そうでなければ、ジョージ・サンタヤーナの言うように、「歴史を忘れるものはそれ(過ち)を繰り返してしまう」ことになる。
以上
今回の連載で理解出来るように、日本が言葉だけで「戦争は反対です」と叫んでも相手国が日本を侵略したい、または戦争に巻き込みたいと謀略を図った場合、それを避けることは非常に困難な状況になってしまいます。直近の事例としては、ロシアの独善的なエゴでウクライナを侵攻し戦争に巻き込んだ事でも理解できると思います。
それによって、多数の尊い人命が失われ、美しい街が破壊されてしまうのです。
日本は交戦権を排除していますので、憲法上自ら戦いを仕掛けることは出来ませんが、
仕掛けてくる相手国は長期戦略で権謀術数を重ね、日本の国土を侵略、破壊してくるでしょう。そのような事態が発生しても、日本が何もしなければ国家は消滅し多数の国民が命を落とす事になるので、残念ながら日本もそれに対処する事になってしまいます。
誰でも戦争は反対であり、平和が続く事を望みます。しかし、いくら我々が正しくとも、相手国は自分が正しいと主張して、理不尽に日本の国土を侵略してくるのが戦争であり、その可能性はゼロではありません。
相手国にそのような気持ちを持たせない環境を作っておかなければなりません。
その為には、相手国に戦争を想起させない、平時から国家としての戦略が必要となります。我々も同様にその心構えを持たなければならないでしょう。
私達は、間違った判断をしない為にも、過去の出来事に目を背けることなく、史実に基づいた真実の歴史を学び理解する事です。そして、世界に誇れる美しい日本と日本人が、戦争や紛争に巻き込まれずに、豊かに平和に暮らせる社会であり続けられるように、私達がそれに取り組む意思を持ち続ける事なのでしょう。
了
2022.11
人生50年と言われていた時代から、現代は100年時代と言われています。
戦後の日本は、1940年代後半に男性の平均寿命が50歳であったが、1970年代には平均寿命が70歳代となり、2010年代になって80歳代と寿命が伸びているにもかかわらず、社会の構造はさほど変化をしていません。また私たちも同様にこれまでの生き方を変化対応させていないのではないでしょうか。
生産活動に従事しうる年齢の人口を『生産年齢人口』と言われていますが、日本の生産年齢人口は1950年に国勢調査が行われた年から15歳から65歳未満とされて現在まで続いており、それをベースに種々の問題提議がなされています。
OECDの生産年齢人口も15歳から64歳なので、ほぼ同様の設定です。
日本の生産年齢人口は1995年実績で8726万人、2018年7728万人と減少しており、2040年には6000万人になると、総務省が発表しています。
構造的な出生率の低下と平均寿命の伸長から、65歳以上の人口比は増加するのが当然です。
言い換えれば、労働者の人手不足や年金制度の危機が社会問題となるのです。
解消策として、子育て環境の改善、女性の働きやすい環境、高齢者の活用、生産性の向上等々が課題として取り上げられていますが、誰でも解りきった事の発表でしかありません。
定年制度を廃止して、働きたい人は働ける社会へ、生産年齢人口を15歳から70歳~75歳としたら統計資料も大きな変化を来たすことでしょう。これからの高齢化社会では80歳でも働ける社会環境が必要かもれません。
世の中が目まぐるしい勢いで変化しているにもかかわらず、行政の頭の中は1950年時代の状況と同様の基準で考えて、「大変になる」と警鐘を鳴らしているだけでしょう。
現在10代の子供たちが50代になった頃には、「人生120年時代をどう生きてゆくか」をテーマにして話し合っているのではないでしょうか。
今回取り上げた書籍の『100年時代の行動戦略』―LIFE SHIFT 2― に私たちがその変化に対応しなければならないヒントがありそうです。
著者は2名の共著で、アンドリュー・スコット氏は ロンドンビジネススクール経済学教授で、マクロ経済を中心にハーバート大学、オックスフォード大学で教鞭をとっています。
リンダ・グラットン氏は ロンドンビジネススクール管理経営学教授で、組織行動論の世界的権威でもあり、英国タイムズ紙の「世界トップ15ビジネス思想家」に選出されました。
2016年にLIFE SHIFT『100年時代の人生戦略』が出版されてベストセラーとなりましたが、第2弾の今回の本は2021年に出版され、それ以上の結果を出した一冊です。
人生100年時代を生き抜くための指南書として、新たな人生設計を構築するヒントになるのではないでしょうか。
英国の教授による出版物ですが “長寿社会”は世界共通の課題・問題であり、日本も既に長寿社会の先頭を歩んでいる国でもあり、十分理解、共感出来る内容となっています。
LIFE SHIFT 2
100年時代の行動戦略
アンドリュー・スコット/リンダ・グラットン著
寿命が長くなり、それにふさわしい生き方、働き方が求められる今日、すべての人が光り輝く未来を作るには?長寿時代の新しい人生との向き合い方を具体的に示します。
今までは、フルタイムで教育を受ける→フルタイムで仕事に携わる→フルタイムで引退生活を送る、という3ステージの人生が当たり前であった。
しかし、今後は長寿化の進展によって、3ステージではなく、マルチステージの人生が当たり前になり、いくつかの重要な問題に向き合わなければならなくなってくる。
年齢に対する考え方を変える
私たちは “暦年齢”で年齢を考えるのがこれまでの考え方であった。しかし、肉体がどれくらい若いか(生物学的年齢)、社会でどう扱われているか(社会的年齢)、自分がどのくらい老けているか・若いと感じているか(主観的年齢)といった概念を考えなければならない。
時間に対する考え方を変える
これまでの教育→仕事→引退という3ステージについて、
第1ステージではスキルを育むことに時間を費やす。第2ステージでは引退後の資金を蓄えようと仕事に打ち込む。第3ステージでは蓄えた資産を取り崩しながら、余暇を楽しんで過ごす。このステージのモデルでは、第2ステージの時間的負担が極めて大きくなる。キャリアを確立するために猛烈に働き、かつ老後資金も蓄えなければならない。
しかし、マルチステージでは、人生の核をなす活動(学習・勤労・余暇)を人生全体に割り振る事によって、各ステージにおけるストレスを軽減出来ることになる。
長期化する職業人生
100歳まで生きることを考えた場合、70代後半~80代前半まで働かなければならないという予測が出来ている。寿命が10年延びるごとに、引退後の生活費を確保するためには7年長く働かなくてはならなくなる。しかし悪い事ばかりではなく、研究では、働き続けると健康寿命が延びる。肉体労働を伴わない職の場合、引退が遅いほど長生きしているようである。
新しい働き方
フルタイム以外の働き方を経験する人が増える可能性が高い。
これまでは、雇用主があなたのスキルを向上させ、キャリアの選択肢を検討してくれる時代であった。今後は、キャリアの流動性が高まる時代となり、一人一人が主体的な選択を行う必要がある。次のステージに進むために新しいスキルを学んだり、新しいキャリアの道筋を検討する事に時間を割くようになってくる。
そこで、時間を再分配する能力と勇気が重要となる。マルチステージの人生では、個人が自分の未来に責任を持ち、主体的に選択を行うようになって「仕事」の概念も拡大する。
学習と移行に取り組む
年齢を重ねるとともに強まるタイプの知能もある。時間をかけて蓄積されていく情報や知識、知恵、戦略等で、それを「結晶性知能」と呼んでいる。
研究によると、人がどのような知識スキルに強みを持っているかは、生涯を通して絶えず変わり続ける。高校の時は、計算したり、物事のパターンを見出したりするスピードが速いかもしれない。30代の頃には、短期記憶が最も強力な時期を迎えるだろう。一方、40~50代になると、他者理解の能力が最も高くなる。
新しいタイプの移行
マルチステージの人生は、中年期にキャリアの見直しと再投資が必要になるだろう。
そのカギを握るのは、年齢を重ねるにつれて強化されるタイプの知能を最大限に活用する事である。ポイントは人工知能(AI)に代替されやすい情報処理や記憶の保持等にはない知能の活用である。
3ステージ時代のアメリカではフロリダの海辺に引退者向けの居住区が続々出現していた。しかし、最近の傾向として健康で活力のある老い方をするようになると、高齢者も都会暮らしを好むようになって、若い世代と交流し、社会の一員でありたいと思ってきたのである。
そこで、今後の都市計画では、多くの世代が暮らしやすい街づくりが重要課題になってくる。
平均寿命が延びても、年齢を重ねるにつれて人が死に近づいていくという現実は変わらない。スタンフォード大学のローラ・カーステンセン教授の理論では、高齢者の一般的な思考は未来の目標について考えるより、現在の活動に関心を向けるようになる、と述べている。
そして高齢者は、活動量を縮小させ減退しつつある情緒的・肉体的資源を、好ましい経験をもたらしやすい人間関係に注ぎ始める。その結果、情緒的な幸福度は維持されたり向上したりするのだ、と指摘している。
マルチステージの人生は、成長と進化を遂げるチャンスも多いが、人間関係に投資する必要がある。私たちの人間関係の核をなすのは家族だ。家族という核の外側には、友人たちがいる。その外側には人的ネットワークが存在する。地域コミュニティーと隣人である。地域コミュニティーの一員となり、なじみの面々と顔を合わせれば、喜びを感じられるだろう。
一方、これからの時代は現代の若者たちに厳しい時代になる。まず、60年という長期の職業人生を送ることを覚悟しなくてはならない。また、人生最初に受けた教育を頼りに職業人生を最後まで乗り切ることは難しくなるだろう。さらに医療や年金は想定以上の問題も出てくるだろう。このような複数の要因が相まって、これまでの3ステージの人生とは異なった人生の地図を描かなくてはならなくなってくる。 以上
2022.12
前回の『100年時代の行動戦略』では伝えきれなかった内容を中心にまとめました。
LIFE SHIFT 2 100年時代の行動戦略 追加
アンドリュー・スコット/リンダ・グラットン著
人間としての可能性を開花させる。
やがて、高度な知能を持ったロボットが人間をペットにする時代が訪れるとしよう。
その時、人間は資源も余暇も経済的安定もふんだんに手にできるが、それは人間が望む人生ではないだろう。人は未来を見て希望と野心と夢を抱き、自らの潜在能力を開花させたいと考える。そして、ただ経済的に豊かになるだけでなく、帰属意識と自尊心を満たすことを、言い換えれば、有意義なアイデンティティーを持つことを欲する。
人間としての開花の達成度は、何を基準に判断すればよいのか。それには3要素がある。
物語 自分の人生を紡ぎ、そのストーリーの道筋を歩む事。
探索 学習と変身を重ねる事により人生で避けて通れない移行のプロセスを成功させる事。
関係 深い絆を育み、有意義な人間関係を構築して維持する事。
流動性の高いキャリア
流動性が高まる一因は、職業人生が長くなる事にある。
100歳まで生きることを前提に考えた場合、70代後半もしくは80代前半まで働く必要がある。MITのジェームス・ポターバ教授(経済学者)の計算によれば、寿命が10年延びるごとに、引退後の生活費を確保するために7年長く働かなくてはならなくなる。
70~74歳の日本人の30%以上が仕事を持っている。アメリカでは20%、イギリスでは10%あまりだが、両国ともにこの割合は上昇傾向にある。職業人生が長くなり、キャリアの流動性が高まるにつれて、70代まで働く事、さらには何らかの形で80台まで働くことが当たり前になるのだろう。
政府の課題
仕事、教育、人間関係に関しては今採用されている政策は、明らかに時代遅れの考え方に基づいている。3ステージの人生と70年間の人生を前提にした制度があまりに多い。
「企業の主要な資産は、機械や不動産などの物的資産である」「人々は職業人生の大半の期間、特定の企業でフルタイムとして働く」という発想から脱却できていない。政府は発想を変えて、マルチステージの人生と100年ライフの時代に即した政策を実行する必要がある。
企業の価値が有形資産よりも無形資産によって決まり、人々が職業人生のかなりの期間、柔軟な働き方をする時代には、既存の組織や政策や規制を見直し、悪い結果を最小限に抑え、好ましい結果を最大限に拡大しなくてはならない。
長寿化によるリスクもその一つだ。ほとんどの国では、昔ほど手厚い公的年金が支給されなくなっており、確定給付型の企業年金を提供する企業も減っている。その結果、人々は自分で老後資金を蓄えて、極めて長く続く可能性のある引退生活を支えなくてはならなくなった。また、自らのスキルを高めるために投資しない人は、職を失う確率が高くなった。以前は安定したフルタイムの職を通じてある程度の所得が保証されていたが、近年の、ギグ・エコノミーにおいては、職と所得の安定を期待できない。このように政府から個人へリスクが移されたことで、政府が国民に準備の必要性を理解させることが極めて重要になっている。
政治システムを作り替える。
テクノロジーの進化は、「労働」や「資本」といった概念を根本から変えつつある。
これまでの歴史上、人々が貧困に陥る主たる要因は、職に就けない事だった。
その為、多くの国は、人々が働いているか否かを給付基準とする福祉制度を築いてきた。
しかし、ギグ・エコノミー(注)の出現により、貧困と失業の関係はもっと複雑になった。
ギグ・エコノミーにおいて「仕事」とは何を意味するのかという事である。
仕事と労働の概念ばかりでなく、資本の概念も変わり始めている。
“ウーバー”は輸送手段を所有していないことを理由に、自社は運輸会社ではないと主張。
“フェイスブック”は、メディアコンテンツを制作していないことを理由に、自社はメディア企業ではないと主張。“イーペイ”や“アリババ”は、巨大な小売サイトを運営しているが、商品の在庫は持っていない。“エアビーアンドビー”は、大手ホテルチェーンのヒルトン・ワールドワイド・ホールディングスの2倍の企業価値を認められているが、不動産を保有せずホテル運営もしていない。
これらの企業の価値は、有形の資本(工場・機械・オフィースなど)ではなく、無形の資本
(ブランド・研究開発の成果・知的財産・デザインなど)に基づいている。
このように、資本と雇用の在り方と人々の働き方が根本から変わり始めたことで、大きな緊張が生まれようとしている。既存の税制や福祉制度が十分に機能しなくなりつつある。
既存の政党の性格づけは、旧来の労働や資本の概念を土台にしてきた。しかし、これまでの労働や資本の概念では現実の世界をうまく説明できなくなり、既存の政党は今日的な課題に対応する能力を失い始めている。その結果として、全く新しいタイプの政党やリーダーが台頭し、政治に激変が起きている。
すべての人が人生と社会の在り方を設計し直すことが求められている。様々な世代が協力し合い、これまでよりも人間的な未来を形づくる必要がある。
政治も探索と開拓を行う事も重要だ。社会による創意工夫と政府による創意工夫の両方が必要とされているのである。この両方がそろわなければ、移行を成功させテクノロジーの進化と長寿化の進展に適切に対処する事は出来ない。 以上
※ギグ・エコノミー
従来の働き方である「会社に雇われて長期的な仕事を行う」事とは異なり、オンライン上のプラットフォーム等を通じて短期的な労働が行われる市場の事。働き方の多様化、労働力不足の解消、地方の深刻な人材不足などから積極的に取組む企業が拡大してきた。
「ギグ(Gig)」とは、もともとライブハウスで他のグループからメンバーをかりて、一時的なその場限りのセッションを行う言葉として使われていた。
2023.02